富岡製糸場が登録決定!
女工哀史で知られる
「
ああ野麦峠」の舞台が
世界遺産になります。
21日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が
世界遺産委員会で
富岡製糸場と絹産業遺産群を
世界文化遺産に登録する事を決定。
富岡製糸場ばかりがクローズアップされていますが、
「
田島弥平旧宅」(近代養蚕農家の原型とされる)
「
荒船風穴」(自然の冷気で蚕の卵を貯蔵)
「
高山社跡」(養蚕技術の教育機関)
も合わせての登録です。
ユネスコの諮問機関は明治初期の建物がそのまま残る
保存状態を高く評価したのですが、
この裏には所有者の片倉工業(本社・東京)が建物を保存し、
富岡市に移管するまで、
年1億円以上をかけて修繕などを続けた努力の結果でもあります。
そうでなければ「奇跡的」と言われる保存状態が保てる筈はないのですが。
そして、この
製糸業には
女工哀史というものが付きまといます。
今回はこの女工哀史と富岡製糸場について振り返ってみます。
スポンサードリンク
女工哀史とは
明治時代の生糸の生産は
輸出総額の3分の1を占めていました。
当時、飛騨地方の農家は収入が少なく、
12歳くらいの少女たちが、「
糸ひき」として働きに行っていました。
その時に越えたのが、映画化もされた
ノンフィクション「
ああ野麦峠」の舞台になった場所です。
製糸場での少女たちを待っていたのは
粗末な食事と低賃金で過酷な長時間労働を強いられていました。
民間の製糸場では1日、12~14時間労働、
休みは月2日と言うのが当たり前になっていました。
これが定説ですが、飛騨地方の農家にとって「糸ひき」は重要な収入源で
、
長時間労働についも苦しかったと答えた娘はわずかで、
「
家の仕事より楽だった」という答えが大半だったようです。
実際は家にいたらもっと重労働しなければ生活が成り立たなかったようです。
例外だった?富岡製糸場
富国強兵を目指す日本政府が、
上州富岡に建設した国営の近代製糸工場が
富岡製糸場の始まりです。
製糸事業のプランニングと工場開設後の管理運営を任されたのは
フランス人技術者ポール・ブリュナで
フランス式に労働環境も労働法が整備され、
8時間労働、週休1日が守られていたらしい。
また初期は生糸を生産する工場というより、
寄宿制の女子繊維工業専門学校といった雰囲気が色濃かった。
この事を考えれば、確かに「
女工哀史」は
富岡製糸場にはない。
しかし、
115年にも及ぶ富岡製糸場の歴史の中で、
ずっとこの条件が保たれたわけではないようだ。
世界文化遺産登録後の課題
保存状態が良いといっても、明治時代の建物。
①施設全体の2割ほどしか公開できていない
全体の補修には100億円超が必要
入場料収入からの積み立て、民間から寄付を募り、調達する方針。
②住民生活に影響
世界遺産への登録が勧告されたのはゴールデンウィークの直前だったため、観光客が大挙して訪れた。
③交通手段の確保やガイド育成
世界文化遺産登録された計4施設は互いの距離が離れていて1日で見て回るのは無理。
大勢の観光客を受け入れる
体制が整っていないのは明らか。
今はまだ、
訪れる方が気を使うべきではと思います。
各旅行会社が早速ツアーを計画している様子なので
出かける前に問い合わせてみるのも良いでしょう。
訪れることで、
富岡製糸場も潤い、補修も進むでしょうけど
禁止事項などはホームページで確認の上で出かけましょう。
http://www.tomioka-silk.jp/hp../index.html
スポンサードリンク
2014-06-21 23:18
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
[編集]
共通テーマ:ニュース
コメント 0